Kさんの部屋

 

  

Universal Acadæmia

 

of 

 

Art & Science

 

 

 

 

 

 

 

 

歴史とエビデンス

 

 

Aさん 

アンティークに興味が

あったんですよね?

 

 

Kさん

いちばんの

興味は

歴史での「証拠」かな。

 

 

 

Aさん 

ここには

ふしぎな卓上の電気スタンドが

ありますが…。

 

 

 

Kさん

これは、アメリカの年代ものですが

骨董でも

アンティークでもありません。

 

 

 

Aさん 

骨董とアンティークって

なにが

違うんですか。

 

 

 

Kさん

「骨董」っていうのは

中国由来のものだし、

「アンティーク」っていうのは、

ヨーロッパ由来のものだから

同じようなところもあり

まったくちがうことも

ありってことかな。

 

 

 

Aさん 

それ、

わかんないです。

 

 

 

Kさん

「骨董」っていうのは

金,玉,書画墨跡,印,窯器,漆器,琴,剣,鏡,硯

明代の本にあるね。

日本の骨董概念も

これにそっている。

いっぽう

「アンティーク」って、

製作から100年以上経っている古器物で

絵画はそれに入れない。

 

 

Aさん 

それに入れないって、

何に入れるんですか。

 

 

 

Kさん

古美術に入れるの。

それも、

絵画が最上位で

古器物は

それ以下。

 

 

 

Aさん 

すごい差別意識ですね。

 

 

 

Kさん

そう、

それで近代になって

見直しの運動が

おこったんだ。

その中心人物は、

ウィリアム・モリス

っていうクラフトマン。

絵画芸術偏重による差別に対して

レッサーアート/グレートアート

と呼んで

英国各地で公演して回っている。

 

 

 

Aさん 

社会運動みたいですね。

 

 

Kさん

英国における本格的な

芸術運動かな。

仲間に

「ラファエル前派」の画人たちがいる。

彼らは、過剰に反応して

ラファエロの前の時代にもどろう

と言ったんだ。

ルネサンス以前ってことさ。

 

 

Aさん 

ローマ時代ですか。

それにしても過激な発想だ。

 

 

 

Kさん

本がもともと、

坊さん

つまり、教会の手の内にしかなかったと同じように

絵画も

坊さんをパトロンとして

生きながらえていた。

それを

王宮や貴族、巷間の富裕層に広めたのが

ルネサンスの時代。

 

 

 

 

Aさん 

ヨーロッパ絵画

といえば

圧倒的に

宗教画ですね。

 

 

 

Kさん

宗教画が咲き誇るのは

むしろ

ルネサンス以降かもしれないね。

この時代意識に反発する

坊さんたちが

プロパガンダとして

積極的に宗教画を描かせたこともあってね。

絵画といえば宗教画

という時代が長く続いたのも事実さ。

後年、

これに反発した画人のひとりが

おれは、

天使なんぞ信じねえ。

背中に羽根の生えた人間がいたら

連れて来て見せろ。

と言ったんだ。

写実派

とよばれる画人たちのひとりさ。

 

 

 

Aさん 

ヨーロッパ絵画改革のはじまりですか。

宗教画を描かなくても

画人が食べていける時代を

迎えようとしていたということですかね。

ところで、

これって、科学とどういう

関係があるんですか。

 

 

 

 

Kさん

歴史上の事実としての

検証材料。

科学にとって

もっとも必要なことは、

表現されたことが

だれの目にも明らかであり

行為であれば

必ず反証性があるということ。

簡単にいえば

誰でもが追実験しても

同じ結果が

あらわれなければならないということ

だね。

 

 

 

Aさん 

絵画や古器物は

歴史上の

重要な検証材料であると。

でも、

検証資料といえば、

書物でしょう。

 

 

 

 

Kさん

もちろん、

書面に書いたものが

もっとも重要な資料

一級資料となります。

そして

引用されるいちばん最初の

資料が

第一次資料

ということになりますね。  

 

 

 

 

 

 

Aさん 

書画だの、骨董だの、資料だのと

なんか考古学みたいですね

 

 

 

 

Kさん

そう、科学という学問は

考古学みたいな

ものかな

 

 

 

  

 

Aさん 

後を追いかけて

価値を見出すわけですか

でも

科学の発見なんて

輝かしいとか、新鮮だとかという

イメージがありますが 

 

 

 

 

Kさん

たとえば

納豆ってあるじゃない?

納豆ができたのは

偶然でしょ

 

 

 

  

 

Aさん 

納豆かあ

あまり好きでなかったなあ

 

 

 

 

Kさん

納豆って

好きな人と嫌いな人と

意外とはっきり分かれるよね

 

 

  

 

Aさん 

関東では好きな人が多いみたいですけれど

関西ではあまりそうではないようですね

 

 

 

 

Kさん

納豆は

どうも菌が、細胞のかたまりが

うようよして働いて

できていくようだぞと

納豆の研究をしたらわかった

そして

菌というのは

どうもいろいろ種類があるぞと

そして

だれでもが

その気になれば作れるぞと

納豆が

うまいぞ、からだにいいぞ

わかる、意識される

  

 

 

  

 

Aさん 

情報として

うまいっていう意識がひろまるってことですか 

 

 

 

 

 

Kさん

思いついたもの、発見できたものが 

意識して

分類される

そして

みんなの意識に

のぼる

徹底してね

 

 

 

  

 

Aさん 

それが

科学的ということですか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

科学が好きってこと

 

 

 

 

Aさん 

それにしても、

科学的っていう話をするときの

Kさんの目のかがやきが

ちがいますよねえ 

 

 

 

Kさん

そうですかねえ

これは、もう

タチ

としてか言えないかもしれません 

やっぱり、

科学が好きなんでしょうねえ 

 

 

 

 

 

Aさん 

ほう、

うらやましいなあ

 

 

 

 

 

Kさん

理由はわからないんですよ、自分でも

なんでこんなに好きなんでしょうねえ

 

 

 

 

 

Aさん 

なんか、

道楽でもしているみたいな話ですよね

 

 

 

 

 

 

Kさん

そう、

道楽みたいなもんなの

音楽好きとか

釣りが好きとか

将棋が好きとか

そういうレベルの話かもしれませんね

 

 

 

 

 

 

 

 

2010年11月20日 

マ・シェリー・アンジュ さんのご家族の方が

主宰するバレエ・コンサートに招待されて

観賞させていただきました。

 

 

 

今、名古屋ではたくさんのバレエ教室が開かれています。

 

その特徴のひとつに

 

「お稽古どころ名古屋」

 

ということが挙げられるでしょう。

お稽古事と科学教育

 

 

 

 

Aさん 

道楽というと

ずいぶん

いい加減なことのように

聞こえますが

あれ、上達するに

結構

努力要りますよね 

 

 

 

 

 

 

Kさん

道楽って

面白いもんで

本人は

「努力」しているって意識、

あまり

ないんですね

  

 

 

 

 

Aさん 

なるほど

ついつい

やらかしてしまうと 

 

 

 

 

 

 

Kさん

ははは、

達人の域に達すると

そうかもしれませんね

気がついたら

手が勝手に動いていた

というようにね 

 

 

 

 

 

Aさん 

手が勝手に動くと言えば

踊りのお師匠さんなんか

自然に手が動くこと

無意識に

形ができることで

美しさを

表現できる

といいますが 

 

 

 

 

 

 

Kさん

それは

まさに、お稽古の

お陰でしょ。 

 

 

 

 

Aさん 

お稽古ですか

ある種の修行ですね 

 

 

 

 

 

Kさん

いや、

修行とは

違います。

 

 

 

 

Aさん 

何が違うんですか。

 

 

 

 

 

Kさん

精確には

説明できませんが

きっと

目的が違うんだと

思います。

 

 

 

 

 

Aさん 

目的というと? 

 

 

 

 

 

Kさん

お稽古を

ずっと続ける目的のひとつは

だれかに

よろこんでもらえるから

でしょうね。

 

 

 

 

 

Aさん 

サービス精神のことですか? 

 

 

 

 

 

Kさん

サービス精神とはまたちがっていると

思いますよ。

よろこんでもらえる

というのは

そこで

もう結果が出てるってことでしょ。

 

 

 

 

 

Aさん 

よろこんでもらえることなら

どんなつらいことでも

なんでもするってことですか。

 

 

 

 

 

Kさん

そうではありません。

はじめの

とっかかりはどうであれ、

自分がしたいことをする

それが

じぶんのためになる

なおかつ

よろこんでもらえる

誰かにね。

 

 

 

 

 

 

Aさん 

誰か

って

誰ですか。

 

 

 

 

 

Kさん

はじめは

身近な人に

つぎには、

ここが重要なんですが

ライバルに

そして

さまざまな人びとに

これ

私の研究対象の

ひとつなんですよ。

 

 

 

 

  

Aさん 

研究

って

何ですか。

 

 

 

 

 

Kさん

もともとは

科学教育のすすめかたの

研究です。

 

 

 

 

  

Aさん  

実験や

論理の教科書を

つくることですか。 

前に

科学教育って

ものごとを理解する術を

知ることだって

言ってましが。

 

 

 

 

 

Kさん

もちろん

そのことも

重要なテーマの一つですが、

それは結果であって

その進捗が

もっとも重要である

という研究です。

たとえば、

地球の話をするとき

どんなことを

考えますか。

 

 

 

 

  

Aさん  

まず、

地球儀かな。

写真やテレビで見る地球も

地球儀のような

地球だし。

 

 

 

 

Kさん

そう、

地球って聞けば

イメージするのは

地球儀でしょ。

でも、

それは、本ものの地球ではないですよね。 

 

 

 

 

  

Aさん  

だって、

地球を離れて地球を見たこともないですもん。

 

 

 

 

Kさん

そう、

自分の目には見えないけれど

想像できる

イメージできるものがあるって

大事でしょ。

それで、

これが

まったくの

ウソであっては困るでしょ。 

 

 

 

 

  

Aさん  

ウソな訳ないでしょ。

あれ、

人工衛星で撮った写真をもとに

作っているんですよね。

 

 

 

 

Kさん

人工衛星が飛ぶようになってからはね。

でも、

地球儀って

江戸時代には

日本人だって持っていたし、

蘭学塾のセンセイなんか

自分で作っていたんだから。 

 

 

 

 

  

Aさん  

じゃあ、

何を証拠に作っていたんですか。

まさか

日本人だからって

でたらめに作っていたわけでもないでしょうに。 

 

 

 

 

Kさん

西洋の近代科学の成果を

もとに

作っていたんですよ。

それは、

幾何学を航海術に発展させて

地球の大きさまで拡大したものです。

そうした文献が

少なからず日本に入っていたということです。

地球儀といっしょにね。

 

 

 

 

  

Aさん  

その地球儀が

当時から

まんざらウソでもないものに

なっていたと。

 

 

 

 

Kさん

ウソでないどころか、

その地球儀の

おかげで

トップは

蘭学塾の、

つまり研究最先端の学者から

政権の中枢だった将軍まで

地球は丸いことを

あらためて

認識できているわけですよ。 

 

 

 

 

  

Aさん  

なるほど、

地球儀ひとつで

世界を理解する術を

身に付けた

ってわけか。

 

 

 

 

Kさん

こういった

理解に必要な装置を

コントライバンス

とあえて名付けて研究し、

1999年に 

発表したんです。

こういった装置:コントライバンス

何も形あるものだけでなく

また、科学や教育にかぎったものでもなく

ひとびとを

成長させたり

発展させたり

するのに

欠かせないものだ、

と思っているんですよ。

 

 

 

 

 

∞ Imagination & management ∞
∞ Imagination & management ∞

 

 

もっとお稽古事と科学教育

 

 

Imagination & management

 

イマジネーション と マネジメント

 

 

 

 

 

Aさん 

理解に必要な装置

というのは

お稽古事にも

必要なものなんですか

 

 

 

 

 

 

Kさん

必要

というより

この

コントライバンス

という概念そのものが

お稽古事の

様式

から生まれてきた

といってもいいと思いますよ  

 

 

  

Aさん 

たとえば

お習字とか踊りとか

日本には

古くからの

お稽古事がありますよね 

 

 

 

 

 

Kさん

たとえば

お習字のコントライバンスは

字を書く筆であり

墨であり

墨を磨る硯であり

行為を司る一連の所作

すべてが

そうですね。

踊りも

同じですね。 

 

 

  

Aさん 

こころがまえ

とか

気持ちの問題

とか

関係ないんですか。

それに 

こういうものは

格式とか様式とか

ずいぶん 

窮屈な

しきたりのうえに

成り立っているようで

自由な感じを受けませんね。

 

 

 

 

 

Kさん

たしかに

うわべだけみると

また

外側から眺めると

確かにそういった雰囲気は

感じられるでしょうね。

でも、

こういった

コントライバンスを

調えることで

気持ちは

あとからついてくる

ってことかな。

 

 

  

Aさん 

でも、やっぱり 

なんか

硬直した形式だけ重んじられて

家元制度

とか

上下関係の機微 

  だとか

神経をすり減らすことばかり

思い当たって

たのしい

とか

自由に発展する

といったことの

反対の世界に見えてきますが

 

 

 

 

 

Kさん

それは

一面的に硬直した部分だけを

とらえるからですよ。

形式というものは

つくると

同時に

作り続ける

という行為が

不可欠なんですね。

 

 

  

Aさん 

壊すってことですか。

それでは

制度も

様式も

ありませんね。

 

 

 

 

 

Kさん

壊しっぱなし

ではなく

壊して

一歩前に出たところで

新しいコントライバンス

発見できる。 

これを続けることです。

そうして

そこに集う人びとが

共有できるように

また

たのしく集えるように

つくり続ける

ことですね。

 

 

  

Aさん 

それが

家元制度といったものと

理解するに必要な装置との

決定的な

違いですか。

 

 

 

Kさん 

一歩前に出たところで

新しいコントライバンス

発見できる。

この発見を生かして続けることが

マネジメントであり、

形にできたものがコントライバンスですよ。

 

 

  

Aさん 

それ、

なんか

明るいマネジメント

ですよね。 

 

 

Kさん 

そう、

何も窮屈でもない

先行きの

明るいマネジメント

話ですよ。

                白椿 東山
                白椿 東山

 

《出会いは、1回限り》の法則

 

 

2011/01/10

 

白椿に

 

東山植物園

 

椿園の入り口で出会いました。

 

 

 

Kさん 

出会いって

不思議だと

思いませんか。

 

 

  

Aさん 

どういうことですか。

 

 

 

Kさん 

「私」という人間が

この世に生まれてきたのは、

後にも先にも私しかいない。

この「私」を「あなた」に変えても、

「彼」や「彼女」に変えても

同じことですよね。

 

 

  

Aさん 

当たり前といえば

当たり前ですね。

 

 

 

Kさん 

当たり前のように思えても、
あまりそう考えて生きている人は
多くないようですよ。
 

 

  

Aさん 

そうですかね。 

 

 

 

Kさん 

たとえば、

出会いとか、

思いつきとか、

発見も、発明も、

そのものが二度と

初現することは無いはずですね。

 

 

  

Aさん 

そうか、

でも、

まあ、つぎもあるかな、

おもってますねえ、

こころのどこかで。

 

 

 

Kさん 

日本語には
「縁」という言葉がありますよね。
そのことを考え直したり、
見詰たりするきっかけをつくることができますが、
どうでしょう。

 

  

Aさん 

そういえば、

「一期一会」

なんて

言葉もありますね。

 

 

 

Kさん  

そう、

誕生・出会い・思いつき・発見・発明 は 

1回限りの法則 

であるといっていいと思いますよ。

 
 
 
ミケランジェロ ・カラヴァッジョ《リュート弾き》1590年 エルミタージュ美術館 蔵
ミケランジェロ ・カラヴァッジョ《リュート弾き》1590年 エルミタージュ美術館 蔵

 

バロックという時代

 

あなたは、

 

バロックという時代に

 

どのような

 

イメージを

 

もっていますか?

 

 

 

Aさん 

 

バッハとか、ヴィヴァルディとか、ヘンデルとか

 

音楽のことですかね。

 

 

 

Kさん  

 

そうですよね

 

音楽のイメージは、きっと強いですよね

 

それに、

 

絵画も大きな影響を与えています。

 

でも、

 

それだけでは決してないようですよ。

 

 

 

Aさん 

 

いったい、

バロックって、どんな時代なんでしょうか?

 

 

 

      アーミラリ天球儀
      アーミラリ天球儀

Kさん  

 

なんか

特別な時代ではなか、と私は考えています。

たとえば、

音楽とか、絵画以外に何か特徴はないか

調べてみたんですよ。

科学の進展もあったわけですものね。

 

ルネサンスでのコペルニクス

ガリレオの提唱による

地動説。

これをめぐって、

ヨーロッパの天文学は大きく発展していますよね。

 

 

 

 

それ以上に、

 

ギリシャをお手本にしたルネサンスという時代復興、

 

この影響がないわけがない。

 

では、

この時代、活躍した科学者といえば、

あなたは、どんな人物を思い浮かべますか?

 

 

 

Aさん 

  

 

バッハと同じ時代に生きたひとですよねえ

 

誰がいるんだろ?

 

 

 

Kさん  

 

たとえば、

ガリレオは木星の観測を続けていて

いくつもの衛星を発見しています。

そのいくつかに

当時の実質的な為政者、

メディチ家の当主の名前をつけているほどです。

 

これに触発されて、

何人かの天文家が登場しているのですが、

なかでも、

イタリアのカッシーニという科学者は

土星を観測して

4つの衛星を発見しているんですね。

 

カッシーニは、

1625年、イタリアに生まれて、1673年にフランスに帰化しています。

そして、初代のパリ天文台の台長を勤めているんです。

 

何か、時代の変化、文化地域の変転の匂いを感じませんか?

 

 

 

ヨハネス・フェルメール 《地理学者》1669年 シュテーデル美術館 蔵
ヨハネス・フェルメール 《地理学者》1669年 シュテーデル美術館 蔵

 

Kさん  

 

フェルメールという画家は、

バロックの中ごろのひとですが、

 

その対象としたのは、

 

はたらく女性や科学者、恋人どうし、音楽家など、

巷の人々や風景画を熱心に描きました。

 

そこには、「教会」も「宮廷」も出てこないんですよね。

 

 

 

 

 

Aさん 

 

画期的な変化ですね!  

 

 

 

Kさん  

 

この変化が齎したものは大きいと

考えています。

 

この時代は、

何も

絵画や音楽といった

文化的な変化だけが

起こったわけではない。

 

経済的にも

精神的にも

(とくに宗教の対立を軸とした社会的影響で) 

大きく変化しています。

 

この時代の変化は

後の世代に

決定的な要因を

創り出すことにもなるんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                    晩秋の爲春亭
                      晩秋の爲春亭

晩秋のえにしと風景

 

2011/11/27

 

爲春亭と知足庵

 

訪れました。

 

 

平成7年に公開された数寄屋造りの母屋「爲春亭」と茶室「知足庵」は、

木漏れ日のなかに

静かに佇んでいました。

 

本日は企画展の初日、

 

それでも

 

花器、磁器を愛でるひとびとが

ぽつり、ぽつりと

訪れています。

 

遺していきたい

 

風物と風景

 

です。

 

 

 

 

木漏れ日の中の知足庵
木漏れ日の中の知足庵

遺すとはどういうことか?

 

Aさん 

侘びを感じる建物ですね。 

 

Kさん

知足庵という茶室なんだけれど、

訪れてみると

しっかりと手入れが 

  行き届いています。

 

 

Aさん

見た目には

鄙びた建物のように見えても

管理ができているのでしょうね。 

 

Kさん

手入れって、

何をするかわかりますか。 

 

Aさん 

お掃除したり

修繕したりすることじゃないんですか。

 

 

Kさん

残念ながら、

それだけだと

どんどん

廃れていってしまうんですよ。

 

 

Aさん 

じゃあ

造りかえるって

ことですか。

 

 

Kさん

たしかに

造りかえれば

新しくなって

生き生きするようには見えます。

 

でも、

廃れるのも早いし

廃れるのを

とめることは難しい。

 

 

 

Aさん 

じゃあ

何をしろ

っていうんですか。

 

 

 

 

Kさん

棲み続ける

使い続ける

こと

でしょうかね。

 

使えば

汚れる。

使えば

傷む。

 

それこそ

廃れるのを早めることになる

思えますよね。

 

でも、

使い続ける、

棲み続ける

ことによって

 

建物は、

生き返っていくんですよ、

不思議に。

 

 

Aさん 

そんな

魔法みたいなこと

ありますかね。

 

 

Kさん

それがあるんだな。

確かに。

 

棲み続けると、

傷んでも

大事に至る前に

気付く。

 

気付けば

直す。

廃れる前にね。

 

直せば

前よりいくぶんか

丈夫になる。

 

毎日、

定期的に

お掃除をする。

 

掃除をすれば、

磨くと同時に

腐敗物質を取り除く。

 

そうして、

より丈夫になる。

 

これ

 

長持ちの秘訣ですよ。

女神 アテーナー:オデュッセウス王の息子テレマコスの教育を託された賢者のメントール、じつは、女神 アテーナーの化身の老人だったということです。
女神 アテーナー:オデュッセウス王の息子テレマコスの教育を託された賢者のメントール、じつは、女神 アテーナーの化身の老人だったということです。

 

 

知を獲得するとはどういうことか

 

 

 

 

Aさん 

 

ところで、

 

私たちは、

 

どんな風に

知識を身に付けているんだろう、

 

って思うことがあります。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

Kさん

  

私たちは、

知らず知らずのうちに習得した知識と、

形式的に学んだ知識と

両方をあわせたものを

「知識」としていますが、

 

あえて極論すると、

後者が「知識」であり、

前者が「知恵」というものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

Aさん 

 

知識と知恵

ですか。

 

 

 

Kさん


知識は教えられても、

知恵は教えられません。

知恵は、自分で主体的につかみ取らないと

身につきません。

 

 

 

 

Aさん 

 

主体的に、といっても

どんな風にでしょう。

 

 

 

Kさん

 

重要なのは、

メンターと呼ばれる立場の人物です。

メンターというのは、

ギリシャ神話でいう、

トロイア戦争後のオデェッセウス王の流浪を歌った

ホメロスの叙述詩

『オデュッセイア』の登場人物である

「メントール(Mentor)」という男性の名前に

その語源があります。

 

このメントールという男性は、

オデュッセウス王のかつての僚友であり、

王の息子テレマコスの教育を託された賢者でした。

メントールは王の息子にとり、

良き指導者、良き理解者、良き支援者

としての

役割を果たした人物のことです。

 

この由来に基づき、メントールが、

英語では、メンター(Mentor)

と言われるようになったのです。

 

また、メンターの対の言葉として

被支援者、被後見人、

という意味の

「メンティ(Mentee)」という言葉が

用いられています。

 

 

 

Aさん 

 

メンターの役割

というのは

具体的にはどのようなことを

するわけですか。

 

 

 

Kさん

 

 メンターの役割を考える前に、

まず、

人が成功するときの要因としては

I.Q(知能指数)だとか、

コグニティブ(認知)スキルだ

と言われていましたが、

 

調べてみると

そうではなく

非認知スキル、

 

すなわち

 

「やり抜く力」

「自制心」

「好奇心」

「意欲」

「社会的知性」

「感謝の気持ち」

「楽観主義」

 

こういうものだということが

わったというのです。

 

 

 

Aさん 

 

すると、

メンターの役割は

それを身に付けさせる

ことができるものだと。

 

 

 

Kさん

 

 つまり、人間の性格は

よい習慣の集積によって

ダイナミックに変わる

と言っているのです。

 

その習慣は、

子供が小さい時は

家庭内のメンター(父母または保護者)

によって決定付けられるんですよ。

 

 

 

Aさん 

 

どんな風に


 

 

Kさん

 

絶えずメンターが目を配っていて、

ここぞというときに

介入して

「なぜ」を何回も繰り返す。

 

 

 

Aさん 

 

なんか、しんどそうですね。

 

 

 

Kさん

 

 する方もされる方も辛いことですよ。

しかし、

そうしないと伝わらない、

知恵をつかみ取ってもらえないんです。

 

 

 

Aさん

 

親といっても、

ふつうの親御さんじゃ無理だな。

いわゆる

教育ママとか

学識のあるモンペ(モンスターペアレント)

だとか

傍から見ると

熱心を通り越して

異常と映る存在であり

役割ですね。

 

 

 

Kさん

 

 でも、

そうしないと伝わらない、

知恵をつかみ取ってもらうことができない。

 

 

 

Aさん

 

そんなにしなくても、

ほら、

好きで野球をやって

天才的な技術が身に付くとか

小さいうちに

楽しんでピアノを習って

コンクールで優勝する

っていうのがありますよね。

 

 

 

 


Kさん


ところが

楽しいだけのプラクティスは、

形式的につかんだ技術、知識を

見せびらかしているだけ

のことなんですね。

 

暫くすると、

技術も知識も

枯れて来る。

ここぞ、というときに

逃げてしまうか、

わからなくなってしまうんですね。


そこで、

メンターが介入して

「なぜ」を繰り返す。

 

それで、

確かな経験が積み重ねられる。

 

この経験に裏づけられた

豊かな知恵・技が

その根底に無ければ、

非認知スキルは出てこないんです。

 

 

 

 

来者勿拒


去者勿追



「来りし者、拒むこと勿れ、去りし者、追うこと勿れ」





Kさん

 

 「来る者は拒まず、去る者は追わず」

ということばがあるよね。


 

 

 

Aさん

 

来る者は拒まず」というのはともかくとして、

「去る者は追わず」というのは、

「勝手にすれば」と言い放っているようで

関わりを持った人に対して、

あまりにも冷たい言葉のように感じますね。




Kさん

 

 中国語の「去」には、

日本語の「去る。離れる」だけではなく、

「行く。出掛ける」という意味があるんです。

国境を行き来する遊牧民のことを表現する言葉だ、

といっていい。




Aさん

 

それにしても

「去る者は追わず」というのは、

相手を突き放しているように聞こえますが。




Kさん

 

「去る者は追わず」というのは、

去りし者、追うこと勿れ」

というのであって、

「追わない、追いたくない」のではなく、

「追ってはいけない」

という、

否定の命令文なんだよ。


 人の行動を国境や法律、利害

(個人的に言えば、こだわり・マイルールなど)などで

無理に束縛してはいけないという意味なんだ。




Aさん

 

それを考えると、

相手の自由な立場を

尊重しているということですか。




Kさん

 

だから、

「去る者は追わず」といっても、

その行動がどんなに本人の強い意志のものであっても、

明らかに間違ったものであれば、

引き留めることもあるし、

別の道を薦めることもあっていい。

 それに、

夢を追って出て行くのであれば、

応援し後押しすることも

関わりを持った人に対して大切なことだろう。




Aさん

 

なんか、

とても温かいことばのように

感じますね。




Kさん

 

だから、あえて

「来る者は拒まず、去る者は追わず」

というなら

相手のことを

自由な旅人のように見立てて、


 「ようこそ、いらっしゃい。」

と迎えて、

そして

「げんきで、行ってらっしゃい。」


と送ってあげればいいんじゃないかな。


これは、

前に話した

メンターとその受け手:メンティとの間の

大切な関係だと思うんだ。



生きること・生き方とは..........って、大仰なことなのか

 

自転車に乗れること・泳げること は 話すこと・書くこと と どうちがうのか

 

 ある、文を書くことを生業とする人が、こんなことを言っていた、

 

    学校で、たった400文字、原稿用紙1枚分の作文を書くのにも苦しんでいた人は、おそらく日本の人口の80%以上になるのではないか。

 そういうぼくも、80%のひとりである。それどころか、その後、半世紀も過ぎて、曲がりなりにもことばを商売にしている現在になっても、まだ作文をするのは気が重い。

 こんなことで、よく生きてこられたとも思うけれど、気が重いなりに不器用に1文字ずつ書き足してきた。

 日本の人たちは、みんななにか書くことについては、苦手そうなので、だれもなにも書かなくなっていく ‥‥かと思ったら、そういうことにもならなかった。

 

 学校の教育の場面での作文だとか、PTAのなにかに文章を頼まれるとかは苦しくても、多くの人たちは、ことばを使ったり書いたりしている。

 それは、作文というかたちではなく、親しい人どうしの「おしゃべり」としてだったり、ツイッターやフェイスブックに書き込む「テキスト」として表現されているのだ。

 そして、さらには「ことば」ばかりでなく、学校では習ってないはずの、写真や動画、イラストレーションというようなかたちで堂々とおおぜいの読者の前に表現されていく。

 「作文」は苦手で、苦しく悩ましいのだけれど、表現はスイスイといくらでもできるじゃん、なのである。

 

 作文の授業がわるかったというわけではないのだけれど、その延長線上には、「むつかしさ」ばかりが残ってた。

 どんなふうにそれを習ったのかは忘れたけれど、作文は苦しいものだという思いが、どうしてこんなに残っているのだろうか。

 

 人は、ほんとは、いくらでも言えるし、書けるのだ。それがどうしてなのか、ぼくにはうまく説明できない。

 でも、実際に、みんなが表現しているではないか。うまいか、へたか、馴れているか、不馴れか、そういうちがいもあるだろうし、表現の分量の多い人や少ない人もいるのはわかる。

 だけど、人は、歩けるのと同じように、表現できる。踊りや歌で表現する人もいるし、無口な人の表現もあるし。

 

 と。

 

  また、ある、ネットのニュースメディアの編集長が、

 

小学校では、原稿に作文を書く代わ りにブログの書き方を教えたらいい。

と曰わった。

 

Aさん

 

ほんとに、

 

みんな、が

 

「いくらでも」書ける?

 

ちゃんと通じるように話せる?

 

って思うんですが.......、

 

 

 

Kさん

 

 トレンドに忙しい人たちは、多分、「基礎」という概念が頭から飛んでいるようだね。

 

 因みに、ここでの(人口の80%という)数量把握には、ほとんど根拠がない、と言っていいのだけれど。

 

ただ、このことを突き詰めて考えてみると、難しい。

 

食べることとうんちすることは自然にできたのか

 

自転車に乗れること・泳げること は 話すこと・書くこと と どうちがうのか

 

そして、

 

生きること・生き方とは..........って、大仰なことなのか

 

これは、

 

ひとの存在にとって、必然のことなのか、ってね。

 

結局

 

ひととして、

 

ものごとを理解する術を身につけることを、

 

ほんとに

 

意識してきたのか

 

いつ

 

遣って来たのか

 

問うてみることだね。

 

さて、

 

 ヒトには、三大欲があると言われている。

 

食欲

性欲

睡眠欲だ。

 

 このうち、睡眠欲については、眠りを催すことに重点があり、ただ単に睡欲もしくは、眠欲といった方がいいだろう。

 

 では、ヒトの基本的な欲とは、この三つだけであろうか?

 

 じつは、そのほかに、知ること、解ることに対する強い欲求があることが、赤ちゃんの生態の研究からわかっている。

つまり、

学欲→知欲:悟欲

というものだ。

 

 ところで、欲とは何だろう。

 

 生理に関するもので、排泄を欲と捉える考え方があるが、そうだろうか?

 たしかに、食欲があれば排泄も欲のうち 、と考えられなくもない。

 果たしてそうだろうか。

 

 じつは、欲の大きな要因のひとつに、「過剰行為」がある。

 排泄のそれは、病状の変化に伴う異常状態にちがいない。それに引き換え、食欲のそれは、味覚の「興奮」によって表れる正常な脳内物質の変化だ。

 これによる「過剰行為」は、脳内変化のある種の暴走といってよい。これが、本能と呼ばれる基本的な欲には、全てあてはまるのだ。学欲もその対象のうちだ。

「学欲の暴走」とは穏やかではないが、身体の保持を脅かしたり、社会的な秩序を少なからず乱すことがあれば、これも「暴走」と呼ぶに相応しい。

 かくして、欲とは通常の生命活動からやや逸脱した行為に至るものである。

 

 こ うして考えてみると、これらの欲を助長するにも、何らかのきっかけやエネルギーが必要なのだ。

 

つまり、

 

欲を助長することにこそ、思い付きや模倣による術(すべ=方法論)が要るのである。

 

だから、

 

欲を引き出すこと

 

ができなければ、

 

方法の指導は、ただの押し付け

 

に過ぎなくなる。

ヒトは考えることはできるが、理解するには術が要る。
しかし、意識がなければ、術は身に付かない。
だがしかし、欲があれば、意識も引き出せる。
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Aさん

 

Kさんは、実際にどのようなことをしているんですか。

 

 

 

Kさん

 

私は教育者、メンターとして「学習障害」のある生徒の面倒をみています。

この生徒たちは全員、特異な事例であり、 例外的な事例であると言えます。

ただ「学習障害」という言葉は、とくに日本においては、

「脳の障害」や「知恵遅れ」といった意味が強調されがちですが、

極端に言えば、ほとんどの学習者は、何らかの部分で「学習障害」にぶち当っています。

 

もちろん、これは「平均点」を漏れなく獲得する「理想の生徒」を基準にした「ことば」なので、

現実的ではないのはおわかりでしょう。

 

でも、もう一方の現実からみれば、どこかに、もしくは進学に致命的な障害=獲得点数が低いということ

があれば、本人にとっても周りの家族にとっても、大きな「致命傷」と感じるのです。

 

この原因はいくつか考えられます。生まれてこの方の教育環境、そもそもの素質、そして生活環境です。

その原因をふまえて、私たちは対処しなければなりません。

 

まずは、結果としての、本人のふるまい、数値で残った成績、興味のあるもの、できごと、趣味、そして、家庭環境をしっかり見極めることです。

 

ここで注意しなければならないのは、成績の葦悪し、躾の葦悪しを細かく取り上げても、

解決の大きな糸口とはならないことです。

 

つまり、躾の悪さが目についても、テストごとの点数の上下することが気になっても、

決して、対処療法では賄えません。

 

これは、ひとつの「マネジメント」です。

 

必要なのは、知見や知識を対処行動に具体化することに、

 

本人とその周りの人々への影響を慮ること、

 

行動の具体化に責任を持つこと、

 

本人はもちろん、周りの人々、そして具体化する私たち自身が喜びを得ること、

 

ではないでしょうか。

  

なによりも、こころがけることは、やさしく、つよく、たのしく、です。

Education is Science
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教育こそ科学だ

 

 サイエンス、この言葉を聞くと皆さんの多くに、つまらない退屈な記憶が蘇るでしょう。 高校時代の生物や物理の授業の思い出です。でも、私に言わせれば 高校時代の授業はサイエンスとはほとんど無関係でした。それはサイエンスの「何」でした。 他の人が発見したものの歴史でした。科学者としての私が最も興味を持つのはサイエンスは「いかに」進展するかです。何故なら サイエンスは、プロセスに関する認識だからです。私たちは観察を行い、 観察から 観察結果に対して推定し、解釈して、そこから 実験や観察で実証可能な予測を立てます。

 

 いくつか例を挙げましょう。人類がまず気づいたことは、地球が下にあり、天空が上にあって、太陽も月も自分たちの周囲を回っているように見えることでした。当時の人類が推定した解釈は地球は、宇宙の中心にあるはずだ、ということでした。予測は「全ては 地球の周りを 周っているはずだ」というものでした。この予測が初めて実際に試されたのは、ガリレオが 初の天体望遠鏡を手に夜空を覗き込んだときでした。ガリレオが発見したのは木星という惑星と、その周りを回る 4つの衛星でした。ガリレオは、この4つの衛星を使って木星の軌道を追跡し、木星もまた、地球の周りを周っているのではなく、太陽の周りを周っていることに気づきました。予測が反証された訳です。これにより 「地球が宇宙の中心にある」という理論が 棄却されました。

 

 

 もう1つの例、「ニュートン卿は、物が落下する先は 地球だと気づいた」ことです。 推定された解釈は引力であり、「万物は 地球に向かって落下する」 と予測されました。でも、当然ながら全てが地上に落下するわけではありません。では、引力の理論は却下されたのでしょうか?そうではなく、理論が見直されて、引力が物を地球に向けて引っ張るのは 「同じ大きさで反対向きの力が働いていないとき」と表現を換えたのです。ここから私たちは新しいことを学びました 私たちは鳥とその翼に注意を向け始め、このような考え方から様々な発見が生まれたことを考えてみてください。 推論が反証され、例外や特異な事象から何を知らなかったかがわかり、新たな発見につながります。このようにして サイエンスは 前進し新たなことを学ぶのです。

 

 

 メディアが時として使う表現であり、さらに稀とはいえ、ときに科学者も使う表現に、何かが「科学的に証明された」という言い方があります。ご理解いただけると思いますが、サイエンスが何かを断定的に証明し、それが永遠ということはありません。願わくば、科学が次の特異例を探し求める好奇心を持ち続け、私たちが次の特異な例を見つけたときに、次の例外を見つけたときに、それに気づく好奇心を忘れず、それに気づく謙虚さを忘れず、ちょうど木星の月の発見の時のように、そこから未知なるものを学んでいきたいものです。

 

 

 では、ここでちょっとの間ギアを入れ替えましょう。教育のシンボルである「シャルル・コルディエの像」は、様々な人にとって多くの様々な意味がありますが、教育に関する一般の議論では、技術的問題へとすげ替えられます。会や 県会、市議会で 議論されるのは、教育費の支払い方法です。倫理学者や教育者は、教育実施する最善策に 知恵をしぼり、学校教師たちがすっかり心を奪われているのは、指導書や成績表を使って 完璧教育を提供するための 最善策です。 以上述べたのは全て良いことです。でも、彼らは皆 ある程度のレベルにおいて教育の専門書は完成品だという前提があります。教育の質を測るとき、私たちはまず、教育を受けられる時間を 物差しにします。これは驚くにあたりません。今の風潮では、教育を提供する施設は、オートバックス並みの迅速対応を重視することから始めるからです。

 

 

 大学を卒業したての時、私にとって唯一の問題は、自動車整備士が持っていて車のプラグに差し込めば何が問題か正確に割り出せるような、そういう小洒落た装置を持っていなかったこと― その理由は 教育専門書の内容は未完だからです。教育はサイエンスです。教育は、プロセスに関する認識です。観察して、その観察の解釈を推定し、実証可能な予測を立てるのです。教育における予測のほとんどは、その検証の対象が人間の集団です。退屈な生物の授業を思い起こせば、集団の特性は平均の周りにガウス曲線すなわち正規分布を描くものです。従って、教育では 推定した解釈に基づいて予測をした後でヒトの集団を使って検証します。その意味は 教育において私たちの知り得た― 知識や専門技術は集団に基づいて得られたものであり、その適用が許されるのは、次の特異な例や例外が見つかって、私たちが実は知らない存在 ― 木星の月のようなことを知るまでの間だということです。

 

 

 さて、私は教育者、メンターとして学習障害生徒の指導にあたっています。学習障害はごくまれなケースです。これらの生徒さんは全員特異な事例であり、 例外的な例であると言えます。私が学習障害の生徒さんに対して行ったことは、どれを取っても教育において最も信頼性が高いとされる集団に基づく根拠であるところのランダム化比較実践に基づいたものではありません。既存の枠組みを超えて考えろ、と言う人はいますが、学習障害に関して既存の枠組みなんてありません。学習障害に関連して不確実性、未知、例外特異な例にどっぷりと浸かるとき、あらゆる科学にとって私が最も大切と考える2つの価値を容易に手にするのです。すなわち、謙虚さと好奇心です。私が謙虚かつ好奇心旺盛であれば、生徒さんの質問を受けて私が答えを知らない場合、私は、同僚に尋ねるでしょう。その同僚はよく似た別の例を知っているかもしれませんから。また、国際的な協力体制を組み立てるでしょう。生徒やその親御さん同士は チャットルームや支援団体を通じて対話を始めるでしょう。この種の謙虚な好奇心のあるコミュニケーションを通じてこそ、私たちは 新たなことを試したり学んだりするのです。

 

 

 さて、非常に重要なことですが、教育において特異な例や例外から、私たちが導かれる新たな考え方は、全て、特異例や例外に適用されるだけにとどまりません。私たちが学習障害の生徒から 学ぶのは、学習障害の管理法だけではありません。時として、特異な例や例外は、私たちに一般的な集団にとって、大切なことを教えてくれます。森の外に単独で生える木のように、特異な症例や例外は、私たちの注意を惹き、木とは何かといったような、より大きな理解へと私たちを導きます。私たちはよく 「木を見て森を見ず」 という議論をしますが、森の中で1本の木を見失うこともあるのです。しかし、一本だけ目立って生えている木は、木を定義するこれらの関係、すなわち 木の幹、根、枝の間に生じる関係をより明瞭にします。たとえその木の幹が曲がっていても、またたとえその木が 幹、根、枝の間にごく非凡な関係を持っていたとしても、それにも関わらずその木は 私たちの注意を惹きますし、私たちは観察することが出来ます。それから一般的な集団で検証できるのです。

 

 

 この例外であり 特異な事象が 私たちの注意をひき、それがきっかけとなって私たちはその後の生物学における 重要な事柄を知るに至りました。

 

 

 さて、みなさんの多くはこう言われるかもしれませんが、もっともなことです。「そうだ確かにすごいよ。でも鳥の翼の話じゃないだろう」と。「木星とかいう惑星の周りに浮かぶ衛星の話をしているんじゃないだろう」と。「これは人間だろう。この特異な例や例外は、科学の進歩につながるかもしれない。でも これは人間だろう」と。そして、私に言えることはただ一つ、私はそのことを重々承知しているということ。私は、この稀である生徒さんと親御さんたちと対話をしてきました。その対話について執筆をしています。この対話は、ひどく困難に満ちています。対話はひどい言葉で満ちています。例えば「悪い知らせがあるんだ」とか、「手の施しようがありません」とか、時として、これらの対話は次の一言に結びつきます。「諦め」と。

 

 無言は居心地の悪いこともあります。教育における無言の箇所はこれらの対話で私たちが使うことばと同じくらい重要になり得るのです。未知のものは何か?今行われている実験は何か?

 

 ちょっと実験してみましょう。 あるフレーズを思い浮かべてください。「no whereどこにもない」です。スペースの位置に注意してください。「no whereどこにもない」の スペースの位置を1つずらしてみましょう。「now here (ここにある)」と。真逆の意味になります。スペースを1つずらしただけでです。

 

 さて、みなさんの多くは言うかもしれません。「だからどうなの? 私は学習障害ではないし、私には学習障害の家族もいません。それで万事がうまく行き、多分、私の家族には関係ありません」と。ごもっともかもしれません。学習障害はみなさんの人生に関係ないかもしれません。しかしながら、教育で書かれていない部分は、みなさんの人生に重要です。

 

 

 みなさんに言わなかった、後ろめたい秘密があります。教育では 集団を対象に予想をたててそれを検証すると申し上げました。でも私が言っていないことがあります。また、教育がしばしばみなさんに言わないことがあります。つまり、人が教育と出会う度に、その人が確かに母集団の中に収まっていることはわかっても、本人にも教師にも分からないのは、その人が、集団のどの部分に属しているか、ということです。従って、教育と遭遇する機会の1つ1つが実験です。あなた自身が被験者になるということです。良い結果もあれば、良くない結果も出ます。結果がうまく行けば、私たちは順調に素早く措置をし、大威張りで自信たっぷりに話します。でも、事態がうまくいかないとき、時として、違うことが必要になります。

 

 

 みなさん、ぜひ担任の教師の中に謙虚さと好奇心を求めてみてください。教師にどう話しますか? 教師に何を話しますか? 教師はあなたに何を話すでしょうか?教師は自分の知らないことを話すことはできません。教師は質問されたことを知らないときに、知らないと答えるでしょう。尋ねさえすればね。なので、対話に参加してください。

道 楽 か ら 動 楽 へ

 

得意なこと、楽しいと思えることをやり続けると、

自分にとってのやり方とか、進め方を発見することがある。

これに出会う楽しみが、道楽の原動力。

この「〇〇方」やそのための「道具」のことを、

コントライバンスという。

 

それで、このことを続けると、

さらに新しいコントライバンスが発見できる。 

 

じつは、これを持続するのは、結構、骨の折れるものなんだ。

 

で、

 

それを維持するには、いろいろなサポートが必要となる。

 

まずは、

 

そこに集う人びとが共有できるように、たのしく集えるように、

ものと考えの空間を用意することなんかがね。

これのひとつがクラウドなんだな。

 

そうして、

 

クラウドを利用することで新しいコントライバンスがうまれる。

 

そのうちに、

 

クラウド自体が活き活きとした動きの場に変わってくるのさ。

 

そう、

 

道楽が、動楽へ おおきく変身するってこと。

 

クラウドを利用するから、 クラウドを活かす へ。

 

クラウドは、能力ある黒子。

 

黒子も楽しそう。

 

甘いリンゴ と 酸っぱいリンゴの

 

夢見る木 と 叶える木のお話

 

 

いつも夢見てセカセカ歩いてる: 夢売り少年ジョブズ

 

手当たり次第、工作に現を抜かしてる: 魔法使いウォズ

 

やる気=夢見る気 

夢が見れないと動けないジョブズ

 

やれ・らない気=叶える気

夢はなくとも現で動くウォズ

 

 

夢か現か、いま、どっち?

 

やる気やれ・らない気

 

どっちも、スティーブ

 

いつもやる気があるとは、限らない

 

いつもやる気がないとは、限らない

 

でも、やる気がないときは、やる気がおこらない

 

夢見てるときは、やる気まんまん

 

夢見てるときは、不可能なことなんて何もない、と思ってる

 

やる気は、夢見るひとのもの?

 

やる気のないのは、夢も見られないってこと?

 

いや、いや、やる気のないのは、やれ・らない気があるってこと

 

やれ・らない気、まんまんだってこと

 

きっと

 

やる気まんまんなひとと、やれ・らない気まんまんなひととが一緒になると、何かが起こりそう。

 

そう、甘いのと、酸っぱいのとの

 

ふたつのリンゴの木の物語り

 

ことばは生まれてくるもの?

 

ことばは獲得するもの?

 

 

 赤ちゃんは、マンマと言えるようになっても、ウンチが言えてないということを知らない。セカイもニホンもジブンについても、幼い子は、知らないということを知らない。

 

 小学生くらいになってから、ずいぶんたくさんのことを教わって、知るようになっていくけれど、知らないことがたくさんあるということを、まだ、知らない。ワカモノと言われるようになって、ご近所のことやら付き合いやら、生活にまつわるいろいろなこと、かたちのないもののことまで、知らず知らずのうちに知っていくことになるのだけれど、知らないことのほうが多いということを、まだまだ知らない。

 

 でも、「知らないことが多い」という知識は、多少なりとも、つかんでいくかな。

そして、オトナになり、さらに生きて、経験が増えていって、やっと「知らないことのほうが多い」と、思い知る。そのうち、さらに知ることが増えていくと、知っていることが少ないどころか、知ってることはほとんどない、なぁ、と思うようになる。

 

 でも、でも、知らないことばかりなのだから、出逢うものすべてが知りたいものだと思える瞬間が、チラチラしだす。

そして、知り方がいろいろあることを知ってるから、なおのこと、知らないコトが知りたいコトになってくる。

 

 でも、でも、でも、いちばん知っているつもりでいた「ジブン自身」が、思いもかけないものだったり、物知りだったりする。そして、じぶんがアホであること、じぶんがヨワイこと、そして、じぶんがズルイこと、キタナイこと、カワイソウなこと、じぶんのすべてが、知らないことのカタマリだったことを知る。

 

 ここから、ほんとうに知ることがおもしろくなるんだ、たぶん。

 

Welcome To Holland 

by Emily Perl Kingsley

 

I am often asked to describe the experience of raising a child with a disability -- to try to help people who have not shared that unique experience to understand it, to imagine how it would feel. It's like this.

 

When you're going to have a baby, it's like planning a fabulous vacation trip -- to Italy. You buy a bunch of guidebooks and make your wonderful plans. The Coliseum, Michelangelo's David, the gondolas in Venice. You may learn some handy phrases in Italian. It's all very exciting.

 

After months of eager anticipation, the day finally arrives. You pack your bags and off you go. Several hours later, the plane lands. The stewardess comes in and says, "Welcome to Holland".

 

"Holland?" you say. "What do you mean, Holland? I signed up for Italy! I'm supposed to be in Italy. All my life I've dreamed of going to Italy."

 

But there's been a change in the flight plan. They've landed in Holland and there you must stay. The important thing is that they haven't taken you to a horrible, disgusting, filthy place, full of pestilence, famine and disease. It's just a different place.

 

So you must go out and buy new guidebooks. And you must learn a whole new language. And you will meet a whole new group of people you would never have met. It's just a different place. It's slower paced than Italy, less flashy than Italy. But after you've been there for a while and you catch your breath, you look around, and you begin to notice that Holland has windmills, Holland has tulips, Holland even has Rembrandts.

 

But everyone you know is busy coming and going from Italy, and they're all bragging about what a wonderful time they had there. And for the rest of your life, you will say, "Yes, that's where I was supposed to go. That's what I planned."

 

The pain of that will never, ever go away, because the loss of that dream is a very significant loss. But if you spend your life mourning that fact that you didn't get to Italy, you may never be free to enjoy the very special, the very lovely things about Holland.

                                                              1987

 

 

詩「オランダへようこそ」

エミリィ・パール・キングスレィ

 

 

 

私はよく障害を持つ子供を育てるって、どんな感じか聞かれることがあります。障害児を育てるというユニークな体験をしたことがない人が理解できるように、どんな感じか想像できるようにこんな話をします。

 

赤ちゃんの誕生を待つことは、すてきな旅行の計画をすることに似ています。

そう、旅行先はイタリア。ガイドブックをどっさり買い込み、現地での素敵な計画を立てます。

ローマのコロッセオ。ミケランジェロのダビデ像。ベニスのゴンドラ。

簡単なイタリア語を覚えるかも知れません。それはどれも、ワクワクすることです。

 

そして、期待を胸にいっぱいに、数ヶ月の後、待ちに待ったその日がやってきます。

カバンに荷物を詰め込み、さあ出発です。

数時間後、飛行機が着陸します。スチュワーデスがやって来て、告げるのです。

「オランダへようこそ」と。

 

「オランダですって?」とあなたは驚き聞き返します。

「オランダってどういうこと?私はイタリアへ行くはずだったのよ!これまでずっと私はイタリアを夢見てきたのに!」

しかし、飛行計画が変更になったのです。

オランダへ着陸したのです。

あなたはそこに滞在しなければならないのです。

 

ここで考えて欲しいのは、あなたたが連れてこられた場所は、疫病や、飢饉や、病気が蔓延する、恐ろしく、ひどく、ゾッとするような所でははないと言うことです。

ただ、そこは、ちょっと違う場所なのです。

 

だから、あなたは新しいガイドブックを買いに外に出て行かなくちゃいけません。

それから、新しい言葉も覚えなくちゃいけません。

そうすれば、あなたにはこれまで出逢ったことのない人々との出逢うことでしょう。

 

ちょっと違う場所へ来ただけなのです。

イタリアに比べて、時はゆっくりと過ぎていき、イタリアのような華やかさはありません。

でもしばらくここにいて、深く息を吸いこんで、周りをみわたすと…オランダには風車があることに気がつきます。

チューリップにも気が付きます。

そして、オランダにはレンブラントの絵もあることに気が付くでしょう。

 

でも、あなたの知人たちは、イタリアに行ったり来たりでせわしなくしていて、皆イタリアでどんなに素敵な時を過ごしてきたかを自慢するのです。

そして、あなたはこの先もずっと「そうなの、イタリアは私も行くはずだった場所なの。私が計画していたのはイタリア行きだったの。」と、言い続けるでしょう。

 

イタリアへ行けなかった痛みは決して消えることのないものでしょう。

なぜなら、失った夢はあまりにも大きすぎるからです。

 

しかし、イタリアに行けなかったことをこの先もずっと嘆いていたら、オランダのすばらしさや、美しさを心から楽しむことは決してできないでしょう。

1987