Universal Acadæmia

 

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Art & Science

ことば の レッスン

 

本 の 虫

 

 

読むこと

創ること

 

 

 

                     本を読む

 

                ・読み聴かせ:storytelling

 

          ・聴き読み:listening

  

          ・読み解き:reading &                                                     comprehension

 

      文を創る

 

     ・感想文:book report

 

     ・説明文:explanatory note

 

     ・小論文:thesis


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          Cognitive Characteristics  

             

              一人ひとり、認知の特性は異なります。

      これを知ることから始めましょう。

               

        Reading Comprehension

 

理解力を養うには、いろいろな方法があります。

認知の特性にあったやり方で楽しく進めましょう。

           


ことばのレッスンで書き留めておくこと

 

Note

of

Book Worm Lesson

 

 

本を読むポイント : Reading Comprehension 

 

①いつ 年・月・日・時

 

②だれが 中心になる人(主人公)と周りの人

 

③どこで 身近な場所(建物・空間)地域(地名)

 

④なにを 起ったこと・在ったもの(事実)

 

⑤なぜ  具体的な理由

 

⑥どのようにして 具体的な方法

話をまとめるポイント : Brain Mapping

 

①テーマをきめて(Mapの中心に)

 

②話しやすいものを:身近なものから外へ(中心から枝分かれ)

 

③時間の経過にそって(枝分かれを時系列にむすぶ)

 

④もの流れ(枝分かれを物の流れの順番にむすぶ)

 

⑤人のつながり(枝分かれに人を配置)

 

⑥話しにくいものを:外から身近なものへ(枝分かれから中心に向かって)


本の虫では、

 

本を読んでメモを書き、文をつくる前にスケッチブックにイメージを描きます。つくり終えた文について、目の前で話し合い、添削をすすめます。その一つひとつがルールであり、プログラムです。まずは、ルールを覚えることからはじめますが、だんだんと自分でまとめることができるようになるのです。それが、本の虫のプログラムの特長です。

本の虫は、カフェレッスン

 

カフェのテーブルをはさんで、1対1か1対2のレッスンです。読み聞かせから、作文添削まで、目の前でやさしくアシストしていきます。週に1回、1コマは40分(幼児)~50分(小論文)です。気楽に、本に親しんでみてください。

ヒトは考えることはできるが、理解するには術(すべ)が要る

 

 

ヒトは考えることはできる

しかし、

理解するには術が要る

だがしかし、

意識しなければ、術は身に付かない

 

 

 

あなたは、自転車に乗ることができますか。また、いつごろから乗ることができるようになりましたか。

あなたは、泳ぐことができますか。そして、いつごろから泳ぐことができるようになりましたか。

 

こんなことを尋ねるのは、自転車に乗れない人たちを何人も知っているからです。

 

また、私自身、まともに泳ぐことができないからです、自慢ではありませんが。

 

 

 

あるひとが、こんなことを言っていました。

 

    学校で、たった400文字、原稿用紙1枚分の作文を書くのにも苦しんでいた人は、おそらく日本の人口の80%以上になるのではないか。

 そういうぼくも、80%のひとりである。それどころか、その後、半世紀も過ぎて、曲がりなりにもことばを商売にしている現在になっても、まだ作文をするのは気が重い。

 こんなことでよく生きてこられたとも思うけれど、気が重いなりに不器用に1文字ずつ書き足してきた。

  

 作文だとか、文章を頼まれるとかは苦しくても、多くの人たちは、ことばを使ったり書いたりしている。

 それは、作文というかたちではなく、親しい人どうしの「おしゃべり」としてだったり、ツイッターやフェイスブックに書き込む「テキスト」として表現されているのだ。

 

 「作文」は苦手で、苦しく悩ましいのだけれど、表現はスイスイといくらでもできる。 

 作文は苦しいものだという思いが、どうしてこんなに残っているのだろうか。

 

 人は、ほんとは、いくらでも言えるし、書けるのだ。

 人は、歩けるのと同じように、表現できる。踊りや歌で表現する人もいるし、無口な人の表現もある。

 

 

 

 

 ほんとうでしょうか?

 

ほんとうに、みんなが「いくらでも」書けるのでしょうか?

 

ほんとうに、ちゃんと通じるように話せているのでしょうか?

 

「スイスイといくらでもできる」と錯覚して、意味不明なことを言っていないでしょうか?

 

 

 

 食べることとか歩くことは、どうも、

 

自転車に乗れることや泳げることとは根本的に違うのですが、

 

混同してないでしょうか。

 

もういちど、考えてみてください。

 

ヒトは考えることはできるが、理解するには術(すべ)が要る。

 

結局

 

ひととして、

 

ものごとを理解する術を身につけることを、

 

ほんとに

 

意識してきたのか

 

いつ

 

遣って来たのか

 

問うてみることを。

 

 

 

ヒトは考えることはできるが、理解するには術が要る。
しかし、意識がなければ、術は身に付かない。
だがしかし、欲があれば、意識も引き出せる。
術と意識と欲.pdf
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ふたつ の “つくる”

 

 

模倣創造も ⇒イメージ;想像 のもと

 

 

ふつう、「創造」なるものは、イメージ;想像の「結果」のように思われています。

 

イメージがふくらんで、あたまの中でかたち;形ができてくる。

 

それをひとは、絵にせよ、像にせよ、文にせよ、音にせよ、表現として、具体化する

 

・・・ように思われている。

 

でも、それは逆なのだろうと思います。

 

土を捏ねているうちに、色を塗りたくっているうちに、ことばを書きならべているうちに、

 

なんだかよくわからないうちに、かたち;像ができてくる。

 

その、「不具合なかたち」を目の前にして、イメージ;想像がふくらんでいく、のだろうと思います。

 

そのきっかけは、思いつきであったり、ものまね・ひとまね;模倣であったりする。

 

それが、ひとたび具現したとき、想像のとびらがひらく。

 

そこまでの間、

 

「それ」はまったくの「創造」などではなく、

 

いびつな「幻想」との、格闘のくりかえしであったりするわけです。

 

「それ」が想像をふくらませ、やがて輪郭をつくってくる。 

 

「創造のそれ」は、ここからはじまるのだろうと思います。

 

最初は、あやしくも魅力あるものとしてはじまるのでしょう。

 

やがて、

 

そのあやしさが輪郭を持ってきて、

 

「それ」が魅力あるものの「かたち;像」となる。

 

 そして、

 

「それ」は、ただのあやしくも魅力的なもの、ではなくなってくる。

 

すごいものやら、まねしたいこと:実体 になっていく。

 

つくることの本質は、ここにあるのだろうと思います。

 

inquisitio

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