Encyclopédie oudictionnaire universel des arts et des sciences

ポンパドール侯爵夫人像;ラ・トゥール 1755年 ルーヴル美術館蔵:罫線での囲みにアンシクペティと読める。
ポンパドール侯爵夫人像;ラ・トゥール 1755年 ルーヴル美術館蔵:罫線での囲みにアンシクペティと読める。

『百科全書』への想い

 

 百科全書がイタリアでのルネサンスの高まりを起点としていることと、〈Art&Science〉のすべてのテーマを「ルネサンスから近代科学まで」としていることとが同一であることは、決して偶然ではありません。

 百科全書が、啓蒙活動を目的に幅広い知識をすべての人々に向かって発信したものとすれば、〈Art&Science〉の取り組みは、科学に限定するとはいえ、ふつうの人々の「生涯教育」を目的に発信しているといえるからです。「教育」というと、なにか堅苦しいようにも思えますが、「ひとが一生を通じて人生をより楽しく過ごす方法と糧をさがす」とでもおきかえれば、いくらかは身近に感じていただけると思います。
 じつは、百科全書の編集活動にかかわったほとんどの人が、そういった身のまわりの人々にとって、より自由で生きやすい術を身につけるために、何を用意したらいいかを考え、それをひとつの体系にまとめました。それを称して「啓蒙運動」「啓蒙思想」といいますが、「啓蒙」とは、未だ自由の「光」の見えない状態に「光を当てる」「光のある世界に自らを啓く」ことを意味します。その糧に、百科全書を用意しようというのです。
 パトロンとなったポンパドール侯爵夫人も、自らの出生に躊躇することなく、リベラルな官僚を身近において、思うにまかせた政治を大胆にすすめました。これまで見てきた時代の流れの中でも、ガリレオやデカルトのような科学の変革を起こした人々のまわりには必ず支援者が存在しているのですが、こういった「パトロン」と呼ばれる存在は文化の振興や科学の発展にとって、欠かせないものだったのです。だがしかし、時代そのものを動かしたのは、そういった一部のパトロンの思惑ではなく、その時代の流れに遭遇した科学者や思想家当人であり、それに影響を受けたまわりの人びとであったことを忘れてはならないでしょう。
 その証拠に、隣国のイギリスでは、パトロンからの支配からも自由になろうと、科学者や思想家た
ちが小さな集まり:ソサイアティをつくって、その集団の中心に、ロイヤル・ソサイアティを置きました。
これは、「ロイヤル」と名がついていますが、国王は代表者ではなく、選任によって代表が決まる「科学者・文化人組合」の許認可者にすぎませんでした.
 ポンパドール侯爵夫人は、そのことも十分承知の上で、イギリスのそういったソサイアティの参加者とも知的な親交をもっていました。たとえば、アメリカで活動をしていたベンジャミン・フランクリンさえもその対象だったといわれています。
 ところで、支援者の「支援」とはどのようなものだったのでしょうか。
 1752年1月、『百科全書』の第2巻が出版されます。しかし、翌月、イエズス会士の一部と王子の家庭教師たちが宮廷でのロビー活動を起し、国王による出版停止処分が下されてしまいます。
「百科全書が、王権を倒し、自立と反抗の精神を植え付け、誤謬と退廃、無宗教と不信仰の基礎を与える」というのです。
 しかし、だがしかし、百科全書の支援者たちもだまってはいませんでした。出版統制局長、その統制に令を出すポンパドール侯爵夫人、その第一の従者の外務大臣です。その月内にディドロと出版者の連合に対して原稿の提出が命令され、ディドロは必要書類一切を出版統制局長に提出しました。そして、それ以後のすべての項目をパリ大学神学部の博士に検閲させることを条件に、続刊の許可が下りたのです。その後も、ポンパドール侯爵夫人たちの保護のもとに刊行が継続されたのです。

『百科全書』への想いとその作成年表
近代科学の継承と公開:啓蒙運動の流れととともに見通すことができます。
『百科全書』 への想い .pdf
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