Universal Acadæmia

 

of

 

Art & Science

 

 

 

 

Aさん 

科学教育って何だ?って考えるんですよ。

何だと思います? 

 

Kさん

科学教育って、

結局は

哲学教育でしょう、哲学。  

 

  

Aさん

哲学って言ったって

わけわかんないですよ。

 

Kさん

悟性だろ、悟性!

 

Aさん 

何ですか、それ?

 

Kさん  

ヒトは、考えることはできるけれど、

理解するに術が要る。

それがないとだまされちゃうんだよ。

 

Aさん 

誰に?

 

Kさん 

自分に、究極的には自分自身に。

で、だまされないように

術を習うんだよ。

いや、倣うんだな。 

教育こそが科学だ!.pdf
PDFファイル 56.7 KB

Aさん 

それが科学教育!ですか。

では、

科学教育のもとになるものは

何でしょう?

 

Kさん 

遊びと好奇心

 

Aさん 

それだけ !?

 

Kさん 

それだけ !!

 

高度な知性を持った動物は、
成熟前に遊びを楽しんでいるのさ。
これは
生物が生きていく上で必要な体力、知識、経験などを
自然に得るために備わった性質だ
と考えられているんだ。
動物は、遊びの中で
狩りやコミュニケーションの方法を
学んでゆくんだ。

 

Aさん 

それで「遊び」が必要だと。
ということは、
遊びは「子どもにだけ」必要だ
ということですか。

 

Kさん 

いや、
ヒトは成熟後も遊びをする
というのが一般的なんだけれども、
ペットになった犬や猫などの動物は
成熟後も遊びたがるようだね。
でも野生のカラスには、
成熟した個体にも遊びと思われる行動
が見られるんだな。

 

Aさん 

人間の遊びって、
生きていく上ではまったく要らないんじゃないか
と思うような行動もありますよね。

 

Kさん 

それを
「他の生物との区別」

と捉える考え方がある。
じつは、

遊びは大きな文化として確立していて
社会活動に役立っているわけだ。
たとえば、
商品の市場を左右する要因として
「遊び」が重要なんだな。

 

Aさん 

ふつう、

大人が息抜きなんかで遊びをするとき、
それを

「趣味」とか「道楽」とか言っていますよね。
個人の遊びは、その人の性格にも依るんですから、
全ての人間に共通して楽しめる遊び

なんてないんじゃないですか。

 

Kさん 

人間は
遊びの中で何かを習得していくことは楽しい、
と感じることができるんだ。
そのため、
遊びながら学習する方法を利用することがある。
一定の集団のなかでは、
共通した遊びも可能だということさ。

 

ヒトは考えることができるは、理解するには術が要る。
しかし、意識がなければ、術は身に付かない。
だがしかし、欲があれば、意識も引き出せる。
術と意識と欲.pdf
PDFファイル 66.7 KB
ヨハン・ホイジンガ著『ホモ・ルーデンス』(1938刊 高橋英夫訳1973刊)
ヨハン・ホイジンガ著『ホモ・ルーデンス』(1938刊 高橋英夫訳1973刊)

オランダのホイジンガは

著書『ホモ・ルーデンス』の中で、


子どもの遊びだけでなく、
企業活動、議論、戦争なんか、
人の活動のあらゆる局面に遊びのようなルールと
「開始と終わりのあるゲーム的性格」が見られる


と指摘している。


そして


「人は遊ぶ存在である」


とも説いている。

 

 

 

 

 

 

 

ドイツのシラーも、
著書『人間の美的教育について』で、
「人は遊びの中で完全に人である」
と言っている。


こういう考え方が比較的多く支持されているんだ。

 

Aさん 

じゃあ、「遊びの種類 」って
ちゃんと分析されているんですか。

 

Kさん

適切に分類することは難しいんだけれども、
遊びには自然発生的にできて、
世代や地域ごとに伝えられていくものと、
商品として提供されるものがあるんだね。

 

Aさん 

インターネット上のゲームなどは、
結局、人間の創造力の成長を阻害するとして、
批判の対象になっているものもあるんじゃないですか。

 

Kさん

おもちゃなんかは、
素朴なものから複雑で最新の技術を導入したものまで、
いろんなものが流通しているのは事実。
そのなかで、おもちゃと遊びを通して
教育や能力開発を行おう
という考え方もあるわけさ。
「知育玩具」といって、
遊びを通して成長を促そう
という分野もあるんだ。

 

Aさん 

そうなると、
ますます「遊び」が縛られて
自由がなくなってしまうんじゃないですか。

 

ロジェ=カイヨワ著『遊びと人間』(1958刊 多田道太郎・塚崎幹夫共訳1971刊)
ロジェ=カイヨワ著『遊びと人間』(1958刊 多田道太郎・塚崎幹夫共訳1971刊)

 

Kさん 

フランスのカイヨワは


ホイジンガの著書『ホモ・ルーデンス』に影響を受け、


『遊びと人間』を著わして、


その中で遊びを

 

次の4つの要素に分類している。

 

 

 

 

 

 

アゴン(競争):運動や格闘技、子供のかけっこ


アレア(偶然):くじ(宝くじなど)、じゃんけん、ギャンブル(競馬など)


ミミクリ(模倣):演劇、物真似、ごっこ遊び(ままごとなど)


イリンクス(めまい):メリーゴーランド、ブランコ

 

 

これが適切な分類かどうか、
精密に確かめる必要があるのだけれど、


結局、

 

「縛られた観念」から自由に抜け出したものが「遊び」

 

なんだと思う。

 

 

Aさん 

で、結局

それが何に必要なんでしょう? 

科学教育に必要なんですか?

 

 

Kさん

科学とは、

「メカニズム」を研究する学問さ。
「こういう仕組みで、こうなっているのか」

というメカニズムを解明するのが科学なんだよ。


科学には問わないものがあるんだ。
それは、

「なぜ、そうなっているのだろう?」
「なぜ、そんなものがあるのだろう、そんなものがあると、どうしていいんだろう」
ということをね。

 

 

 

Aさん 

つまり、
科学はものごとの「存在の意味」や「価値」を問わないんですね。

 

 

 

Kさん

最近も

「ヒッグス粒子がやっぱり存在するかも知れない」

なんていう話題が出ているよね。
「ヒッグス粒子があるからこうなんだ」

という

メカニズムの証明は論理的に可能さ。
でも、

「なぜヒッグス粒子のようなものがあるのか」
という

存在そのものの意味や価値については、

説明のしようがないんだ。 

 

 

 

Aさん 

なるほど、わかりました。
「科学という学問に価値がない」わけではなく、
「科学の方法論は、研究対象の『価値』を問わない」

ということですね。
たしかに、

科学で、分子や原子や物理の法則が

なぜこの世にあるんだ、
と問うたら、

それはもう科学ではなくなってしまいますね。

  

 

 

Kさん

木からリンゴが落ちる。
「なぜ落ちるの?」と問うても、
「なぜか」は、わからない。
「重力があるからだよ」と答えても、
では、「なぜ重力があるの?」と問われたら…、
そう繰り返していけば、
結局、答えはないんだよ。

 

 

 

Aさん 

法則は、

なぜリンゴが落ちるのか

を教えてくれているわけではなくて、
リンゴはこのルールに沿って落ちている、

と説明しているだけなんですね。

 

 

 

Kさん

そう。
そしてその法則も、
現象を観測してあとから人間が「発見」しただけのもの。
別に、

ニュートンがいなくても、
法則が見つからなかったとしても、
リンゴは落ちるだろ。
つまり、重力の存在に、
人間が意味づけすることはできないのさ。
あらゆる存在に意味付けをする仕事を負っているのは
科学ではないんだ。
哲学だよ、哲学。

ただ、
哲学と拮抗するように
宗教もまた存在の意味付けをすることに熱心なんだな。
一神教のキリスト教、それより以前の多神教でも、
すべてのものは神によってつくられたことになっているよね。
神は愛であり、
被造物にはすべて神の愛が宿っている。
だから、
その内在している愛の力で互いに引き合うんだ、

神の愛で重力の説明ができちゃう。
存在に意味を見つけられる、
価値を見いだせる。
それが宗教というものさ。


残念ながら


哲学は、


「どうしてだろう?」

問題を提起するだけなんだ。

 

 

 

 

Aさん 

問題を見つけるのが哲学、
というわけですか。
たしかに、

科学の発見した万有引力の法則には「意味」がない。
「説明のための論理」だけがある。
空間にも時間にもあった意味を、
科学が見捨てたと。

 

 

 

Kさん

質量に比例して距離の二乗に反比例した力が働いて――
というのは
「How=どのようにして」に対する答えであって、
「Why=なぜ」に対する答えではない。
「意味」を問うのはなぜの方だけれども、
それがない。
「科学的自然観」が世を席巻するまでは違ってた。
昔は、すべての空間に意味があったんだ。
日本でもそうさ。
こっちの方角には神様がいる、
別の方角には別の神様がいる。だから、
方位の考慮に忙しかった。
哲学はそのことの意味づけに躍起になった。
ところが、
科学がこうした意味をぬぐい去った。
空間は意味のない、全部均一のものになってしまった。
時間もそう。
昔は時間にも意味があった。
毎日毎日に意味があったわけだよ。 

 

 

 

 

Aさん 

今日は大吉、明日は友引、と毎日毎日に意味付けをしていましたね。

 

 

 

Kさん

ところが、時間からも意味が消し去られた。
残されたのは、「正確で均質な時間」だけ。
今の「ニュートン力学的な世界観」では、
空間や時間に意味を持たさないんだね。
自然科学は「意味」を問わないんだ。「価値」も問わない。
でも、
哲学ではその「価値」を問い、
「意味」を問うんだよ。

 

 

 

 

Aさん 

え、なぜ哲学が?

 

 

 

Kさん

それは、
生きるとは何か、
という、
根源的な問いと関係してくるのさ。

 

 

 

 

Aさん 

生きるとは、何か……。

 

 

 

Kさん

たとえば、
生物とは、ずーっと生き続けるようにできている存在だよ。
生命は約38億年の歴史を持っている。
生物の遺伝情報として、
4種の塩基アデニン・チミン・シトシン・グアニンからなるDNAを、
バクテリアでも哺乳類でも、
どの生物でも使っていることから、
今のすべての生物は、
昔いた共通の祖先生物の、
直系の子孫だと考えられている。
つまり、
生物は現代に至るまで延々と生き残って続いている。
細菌も人間も、
みんな38億年前から続いている生物が進化したものさ。
この38億年のあいだに、
生物にとっては何度も絶滅の危機が訪れた。
巨大隕石が降ってきたり、地球全体が凍りついたり、
環境は激変した。
それでも、生物は途絶えなかった。
もし生物が続いていくようにできていなかったら、
現代まで続いているはずがないだろ。
だから生物は続くようにできている存在だと言っていい。
38億年の歴史が何よりの証拠さ。
生物がずっと続くことのできる秘訣が
生殖だよ。
個体は亡びるに決まっている。
熱力学の第二法則により、
形あるものは必ず亡びる。
それでも
亡び果てないようにするメカニズムが
生殖さ。
定期的に自分を複製し、
自己を新たに増やす。
そうすれば、
今の自分が亡びても、
複製した自分、
つまり
子供が生き延びられる。
また、
複製するときにも、
一工夫がある。
自分は今の環境でこそ、
生きていられるのだけれども、
環境が変わったらだめかもしれない。
だから
複製する際に、
自分とはちょっとだけ違う子供をいろいろと作っておけば、

どれかは新たな環境においても、生き延びられるだろう。
これが有性生殖さ。
こうやって、
生き延びる確率のどんどん高いものが進化の過程でできた。
これが今いる生物なんだよ。
だから
生物は生き残って子孫を増やすという目的を、
あたかももっているかのようにふるまうようにできているのさ。
もちろん、
生物が最初から目的をもって進化してきたわけではない
が、
結果として目的をもつかのようにふるまっている。
その目的にかなうことが、価値があることになる。
つまり
生物は価値や目的をもって行動しているんだ。 

 

 

 

 

Aさん 

だから、たとえば「なぜ生き物が生き続けているか、
という意味を考える学問は、

研究対象の「価値を問わない」そして「意味を考えない」自然科学を

超越してしまうわけですね。

 

 

 

Kさん

そう。そもそも生物は現代まで滅びず生きてきた、
だから
生物が生き続ける、存在している

ということには意味があり、
それだけで価値がある、
と言ってかまわないと
私は思っているんだ。


ただし


こういう論理の進め方を
「自然主義的誤謬」と言って、論理学的には間違いだよ。
でも、
論理学そのものが、
人間の脳みそがあとからくっつけた
机上の「論理」なんだ。
論理学の歴史より、
生物38億年の歴史のほうがはるかに長いだろ。

だから
人を含め、生物は存在すること自体に価値があると、
私は思っているんだ。 

 

 

 

 

Aさん 

つまり、
人を含め、
生物とは、
自らが生き残り続けることを「価値」と認めている存在である、
と。

 

 

 

Kさん

そう。
一方で、
物理学、
たとえばヒッグス粒子そのものには
「価値」というものは存在しない。
価値という概念とは無縁なんだ。
自然科学は「価値や目的を問わない学問」だよ。
ところが、
地球上に誕生した生物というのは、
進化の過程で、さまざまな環境において、
ずっと生き続けられるように体を作り替え、
多様化して、
現代まで生き残ってきた。
ヒトの脳は、
これまで
「なぜこの生き物は、この環境で生き残ったのか?」
という具合に「なぜ」と問うてきた。
「仕組み」や「論理」だけじゃなくて、
その生物のもつ器官や、その生物の示す行動の、
生き残りにおける「意味」や「価値」までを問い続ける、
ということを
「哲学」はヒトの脳の中でやってきたんだよ。

 

 

 

 

Aさん 

論理をつきつめるだけじゃなくて、
具体的なイメージを追いかける。
つまり
「価値を問う」という側面が哲学にはある。
そこがとっても人間的ですね。

 

 

 

Kさん

もっとも、
あまり人間的な部分に偏ると、
価値のみ、欲得のみ、
と突出する危険もあるんだけれどね。

 

 

 

 

Aさん 

自然科学は、
物理学にしても化学にしても、
意味を問わない。
価値を問わない。
論理だけを追う。
ところが
哲学はちょっと違う。
たとえば、
「生物はなぜ生き続けてこられたのか」
という意味を問う、
価値を問う、ということでしたね。

 

 

 

Kさん

ただ、哲学でそう考えても、
分子生物学なんかでは、理論・論理一辺倒だよ。
科学は、理論至上主義で、
事実は単なる事実であって、
事実の羅列は科学とは言わない。
事実を説明する妥当な理論が提出されていない事柄については、
いくら事実が積み重なっていても、
正式には科学的真実としては認められない。
事実よりも理論が主役。
理論が事実を真実にする、
これが科学のやり方さ。

 

 

 

 

Aさん 

現実をもってしても、
「なぜそうなるか」の理論が確立していないと
科学じゃないってことですか。

 

 

 

Kさん

だから私は、
「人間の存在」という現実を
まず積み重ねて、
なぜそうなっているのかは、
たとえわかっていなくても、
その現実を認めると、
どういう世界がひろがるかと、
イメージを湧かせてみてるわけさ。
現実とは、実際に存在するものだからね、
否定のしようなんかない。
人間が科学を確立するよりはるか前から、
「生物」は地球上に存在し続けてきたわけだよ。
だから、
哲学は

人間の誕生当初からそれを追求してきたんだね。
普遍化した理論至上主義だけでは成り立たない学問さ。
 理論っていうのは、
理想的な状況でしか成り立たないものなんだよ。
それは仮想の世界なんだね。
分子は見えないから仮想が効く。
酸素分子は、どの分子でも同じだと仮想する。
すると
普遍的な理論を作れる。
でも
個々の生物は、同じネコと言っても、
みな顔つきも違うだろ。
個性をもっているんだ。
それを普遍化してネコと言おうとすれば、
それは仮想物としてのネコでしかない。
しかし生物は、
目に見えるから仮想物にはしにくいよね。 

 

 

 

 

Aさん 

物理や化学は、
結局、
見えないもの、直接触れないものを相手にしていますよね。

 

 

 

Kさん

重力だって分子だって
「そう考えると理論として成立するはず」
という仮定の存在だ。
個別の分子というものを
比較検討して研究している
わけじゃあない。
フックの法則
ってあるだろ。
バネにつけるおもりの重さを2倍にすればバネの伸びは2倍になる、
ってやつさ。

でも、

現実のバネに2倍の重りをかけても、
きちんと2倍とはならないんだよ。
バネをつくっている鉄原子の格子には、
格子欠陥というものが必ず入っているから、

2倍プラスいくつか、

になる。 
つまり
現実には「そのバネの個性」によって、
ぴったり法則通りにいかない。
この場合、
物理学的には、

格子欠陥がある現実が悪い、
法則が間違っているわけじゃない、
と判断しちゃう。 

 

 

 

 

Aさん 

地球が自転していることで1日という時間がずれてしまうのですが、
ずれのないセシウム原子の振動を基準とする時計の方が正しい
というのと同じですね。

 

 

 

Kさん

現実は必ずしも科学の理論通りにはいかない。
でも、
科学はそれを認めたがらなかったりする。
まるで上から目線さ。

 

 

 

 

Aさん 

理論のほうが現実より偉い、
という発想は、
自然科学だけじゃないですね。
社会科学にもありますよ。
経済学者にもよくいますね。
自分の予測が間違うと、
理論通りに市場が機能しない!
現実が間違っている!
と主張する人が。
ただ、
理論至上主義は時として問題かもしれませんが、
物理や化学を学んでも仕方がない、
数学の因数分解なんか解けてもしょうがない、
ということではないですよね。

 

 

 

Kさん

理論があるから、
現実が理論からどれだけ違っているかで、
現実を測るものさしや、
現実を見る視点が得られるんだよ。
それから、
いいかげんだけれど、
理論を使って予測を立てられるのさ。
理論を学ばず、現実だけを見ちゃうと、
現実はごちゃごちゃでわからない、
だから
理解はあきらめて現実に埋没し、
ただの現世利益のみを追いかけてしまい、
道を誤ってしまうことになりやすい。
科学の理論をきっちり学ぶことは
きわめて重要なんだ。
経済学の理論も同様だよね。
一見、
役に立たなさそうでも、
理論を体系的に学ぶべきなんだ。
理論を作るには、
基本になる個々の事実の細かいところには目をつぶって、
共通性のあるものとして見立てなきゃいけない。
まあ
言ってみれば、どんぶり勘定なんだな。 

 

そうやって、

 


ある一般的なものをイメージする。
そうして、
その上に厳密な論理を組み立てる。
論理は厳密でなくちゃならない。
そうじゃなかったら、
そもそもが、いいかげんだから、
本当にいいかげんになっちゃう。
科学の論理や数式は厳密だから、
「科学とは厳密一点張りだ」
と思っている人が多いのだけれど、

 

 

本当は、
現実を上手に近似するいいかげんなもの

なんだよ。


このことを学校ではあまり教えないし、
プロの科学者も忘れやすい。
だから「理論が正しくて現実が間違っている」
なんて発想をする科学者が出てくるんだよ。
そこが問題なんだよ。
厳密な論理も知る必要があるのさ。
どんぶり勘定で世界をみたてる上手なイメージの湧かせ方も
稽古する必要がある。
とくに数学・物理は、
論理のお稽古に適した学問なんだな。 

 

 

 

 

Aさん 

物理や化学や数学といった
自然科学の理論をしっかり身につける。
その一方で、
現実をしっかり見る。
ロジックとイメージ。
理論と現実。
両方の視点を持って、
世界を把握し、分析する……、
それが人の存在にせまる大事なアプローチ、
ということになるんでしょうね。

 

 

 

Kさん

物理や化学では、
現実を理想化して理論をうち立る。
理想化する過程で、
抵抗や摩擦など、
さまざまな誤差を招く要因を省いて
モデルを構築する。
現実は、複雑に決まってるだろ。
人間はそれほど頭がよくないから、
複雑な現実をある程度単純化しなければ、
世界を把握し、理解することができないんだよ。

 

 

 

 

Aさん 

だからモデルをつくり、
理論を構築すると……。 

 

 

Kさん

そのモデルに
どこまで現実の複雑さを組み込むのか

次に問われてくる。
いずれにせよ
複雑な現実と向き合い、
そこから人間に扱いやすいような
きれいなモデルをつくっていく。
これが
「一見、非現実的な学問」を学び続ける意味なんだ。

 

 

 

 

Aさん 

現実の複雑さと向き合いながら、

理論を構築するわけですか。

 

 

 

 

Kさん

このプロセスを経ないと、
学者は、
「現実から遊離した理論一辺倒の科学の世界」
にどっぷりと浸かったままになっちゃうんだ。

 

 

 

 

Aさん 

自然科学だけじゃなくて、
社会科学や教育学でも
同じような過ちを犯していることに気づかされます。

 

 

 

 

Kさん
科学の論理は、「意味を問わない」

だがしかし、

「なぜ」と問わなければ、

新しい、もしくは、誤りの発見はない、

ということだね。

 

 

 

 

Aさん 

すべての人間を

合理的な利益追求のために育てよう
としてきたことが
現実と離れてしまったのだと思います。

 

結局

 

哲学が

科学教育にもっとも必要だ、

ということでしょうか。

 

Questionnant le sens.